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ラオスの歴史

ラーオ族による統一国家の出現は1353年のラーンサーン王国であるが、それ以前から民族としての活動は活発に行われていた。[1]ラーオ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりとされており、年代を経るにつれて南下をしていることが分かっている。紀元前5000年頃にはすでに黄河や揚子江の中間あたりまで南下を進めており、ゴビ砂漠に興った漢民族に押し出される形で現在の四川省近辺に移住し、そこに都市国家(ムアン)をつくった。
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紀元前1000年頃には西安の北西にムアン・ルン、現在の重慶の位置にムアン・パー、長沙近辺にムアン・ギャオという都市国家を作っており、周の皇帝がムアン・パーに使節を派遣したことなどが記されている[2]。その後紀元前853年にはタタール族が北方より侵出を始め、ラーオ族はムアン・ルンを破棄しムアン・パーへ移住している。その後周によりムアン・パーも攻撃を受け、ムアン・ギャオへと移った。

紀元前215年には秦によりムアン・ギャオも攻撃を受けたため、ラーオ族はさらに南下し、現在の雲南省・保山近辺にムアン・ペーガイという都市国家を新しく形成した。紀元前110年ごろ、前漢の武帝は仏教の経典調査団をインドへ派遣しようとしていたが、ムアン・ペーガイの初代国王クン・メンはこの使節団のムアン・ペーガイ通過を許可しなかったため、ムアン・ペーガイと前漢との対立が勃発した。この対立は約7年間続いたが、紀元前87年にムアン・ペーガイは滅亡する。9年にクン・メンの子孫にあたるクン・ワンによりムアン・ペーガイ独立が宣言されたが、これも長くは持たず、50年に後漢により再び滅ぼされた。

その後数世紀の間、ラーオ族に関する資料が存在しておらず、どのような歴史を辿ったのかは不明であるが、7世紀頃に6つのムアンが雲南省の大里盆地に建国されている。これらのムアンを総じて六詔あるいは六詔国と呼称する。六詔のうち、最大のムアンであったムアン・スイ(南詔)は唐に対し友好関係を築くべく建国当初から貢物を贈っていたとされている。南詔は強大な唐の援助を得て729年、皮羅閣王の時代に六詔を統一し、南詔王国を建国した。皮羅閣王は死後この功績により唐より「雲南王」の王位を贈られている。

しかし、南詔王国の力が強大になるにつれ、唐との友好関係は次第に崩れ始め、唐の玄宗は2回にわたり南詔王国へ交戦を仕掛けたが、どちらも南詔王国の勝利に終わっている。南詔王国の勢力はさらに増し、823年にはピュー王国を、858年にはトンキンを、863年にはアンナンをそれぞれ攻略し、領土を広げている。しかし902年に漢人の権臣・鄭買嗣が起こしたクーデターにより、南詔王国は滅亡した。

南詔王国の滅亡を契機としてラーオ族は大移動をはじめ、インドシナ半島、ビルマ、アッサムなどの各地に散り、ムアンを形成しはじめた。

ラーンサーン王国の建国
南詔王国の滅亡により各地へ拡散してムアンを形成していったラーオ族であったが、各地でそれぞれ独自の発展を遂げ、タイ北東のチェンセーンにムアンを形成したグループは後にチェンマイ王国、スコータイ王国を建国し、今日のタイ王国を形成していったタイ族の父祖グループと位置づけられ、メコン川上流のスワーにムアンを形成したグループは後述するラーンサーン王国を建国し、今日のラオス人民民主共和国の父祖グループと位置づけられるなど、民族の分化がこの頃より始まった。その他国家としての発展を見ないまでも、ミャンマーのシャン州などにムアンを形成したグループなども人口としては多い。

ラーオ族が移動した地域の大部分は当時クメール帝国の支配下[3]、あるいはモン族・ハリプンチャヤ王国の支配下[4]にあり、ラーオ族はこれら先住民族の支配力の薄いところへムアンを形成していった。

チェンセーンに作られたムアンはチェンセーン支分国(あるいはムアン・ヨーノック)と呼ばれ、南詔王国・皮羅閣王の息子シノナワットにより統治されたが、四代目国王バンカラットの時代に内紛が勃発し、1080年にクメール帝国に奪取されてしまう。バンカラット王はさらに南へ脱出し、1099年に息子プロマラットにより再奪還を成し遂げた。この勝利を記念し、ムアン・ヨーノックはヨーノック・チャイヤブリーと改名された。しかし、次代のチャイシリ王の時代には同じラーオ族のシャン族の襲来を受け、都市は壊滅的な打撃を受けた。チャイシリ王はチェンセーンを破棄し、今日のスコータイ周辺に新しいムアンを形成した。

このようにラーオ族のムアンは弱小勢力を迎合し、さらに強大勢力に攻撃を受けてはまた新しいムアンを形成するといった勃興を繰り返しながら歴史を重ねていく群雄割拠の状態にあったが、13世紀初頭に始まった元の進軍と、名君ジャヤーヴァルマン7世の死去およびその後継者争いによるクメール帝国の弱体化をきっかけとして大きな変化を見せるようになり、1238年、すでにスコータイとカーンペーンペット近郊にムアンを形成していた一族をバンクラン・タオが纏め上げてスコータイ王国を建国。次いで1259年、パヤオにムアンを形成していた一族とチェンラーイの一族が中心となり、マンラーイを国王とするチェンマイ王国(ラーンナー王朝)が建国された。

チェンマイ王国は建国当初は王都をチェンラーイとしていたが、すぐにファーンへ遷都し、その後1296年に今日のチエンマイ[6]を王都と定めた。しかし、マンラーイはチエンマイに定住することはなく、息子の一人を監督官に任じ、自身はチェンラーイから執政を行った。マンラーイ王の下、パヤオ王国を併合するなどチェンマイ王国はその版図を着実に広げていったが、パユー王の時代になると辺地の領主の離反が見られるなど、その権威は徐々に低下していった。同時期、同様に興ったスコータイ王国においてもウートンの領主、ルアン・パンヌアが離反を起こし、内部分裂状態になるなどしていた。

一方、メコン川上流のスワーにムアンを形成していたラーオ族の一派はスコータイ王国建国後は同王国の支配下となっていた。このムアンを支配していた21代目のカンポーン王が1334年に死去し、王位継承権を巡り内乱が勃発した。息子のファー・グムはクメール帝国のアンコール・トムへ留学し教育を受けていたが、この知らせを聞き、クメール王より1万の軍勢を借りて挙兵し、スワーを奪取した。その後ファー・グムはスコータイ王国権威の低下を契機として各地ムアンを統一し、1353年、ラーンサーン王国を建国した[7]。ラーンサーン王国は今日のラオス人民民主協和国の民族的、国家的な礎となった。

ラーンサーン王国建国当時、ファー・グムの勢力に最も拮抗した勢力としてムアン・ヴィエンチャンに先住していたラーオ族の一派があり、ファー・グムはヴィエンチャン平定後に行政と軍政の再編を行った。行政組織については国内を「主要ムアン」「強化ムアン」「国境ムアン」の三つに大別し、それぞれのムアンの性格に応じた行政を敷き、これらのムアンの領主は全て国王が任命する形を取った。

ラーオ族は一時期大乗仏教の信仰が広まったものの、古来より天空や祖先の霊魂(アニミズム)を信仰対象としていたが、ラーンサーン王国建国後の宗教面の大きな変化として住民の間でスリランカ渡来の上座部仏教が信仰されるようになったことが挙げられる。これはクメール帝国の王女でったファー・グムの妻ケオ・ケーンカンガーの働きによるもので、父親のクメール王に仏教使節団の派遣を要請したことに始まる。20数名の仏僧と工芸家で構成された仏教使節団は1357年にスワーに到着し、多数の教典とともにプラバーン金仏像がラーンサーン王国に寄贈された。

王女の死後1363年以降、ファー・グムはかつての国政への情熱を失い、乱行が目立つようになっていき、1371年、王室会議の決定により国外追放の処置がとられ、その2年後にナーンで死去した。2代目の国王となったウン・ムアン(サームセーン・タイ王)は1377年に王国内の人口調査を実施、行政と兵制の改革に着手した。この頃、チェンセーン地域が離反するという事態が発生しているが、ウン・ムアンにより鎮圧されている。ウン・ムアンは在位43年という長きに渡り、1417年に死去するまでラーンサーン王国の平和を堅持した。その後長男のラーン・カムデーンの時代に入ると、越との関係が悪化した[8]。また、ラーン・カムデーン王政末期には内紛が勃発、ラーン・カムデーンの死後はウン・ムアンの妹であるマハー・テーヴィが実権を握り、国内は大いに乱れた。この情勢不安は1456年にパサックの領主ワンブリー(サイ・チャカパット)が王位を継承するまで続いた。

上座部仏教ワンブリー王政時代、1478年にムアン・ケーンターオの領主パタリが小乗仏教において神聖視されていた白象を国王に献上した。このことを伝え聞いた大越の聖宗はただちに使節団を派遣し、見世物用として白象を借り受けたいと申し出た。当然神聖視されている動物であるため、この要望に応えられるはずもなくワンブリー王はこれを拒否したが、この件はラーン・カムデーン王時代の裏切り行為の報復機会を伺っていた越に対し、ラーンサーン王国へ攻め入る大義名分を与えることとなってしまった。聖宗帝は50万の大軍をもってスワーへ攻め入り、王都は壊滅状態に陥った。

その後、スワンナ・バンラン、ラーセンタイ・プワナートが執政したが、プワナート王が死去した1495年は次期王位継承権のあるソムプーは7歳という幼齢で叔父にあたるウィスン・ナラートが実権を握った。ソムプーは9歳で即位するも3年後には死亡し、ウィスン・ナラートが王位を継承した。ウィスン・ナラートは1503年からウィスン・マハー・ウィハーン寺院の建立に着手し、マノーロム寺院に安置されていたプラバーン金仏像を同寺院へ移設させた。また、この次期には上座部仏教が大いに栄え、名僧と冠される人物も多数出現し、『三蔵経』のラオ語訳や、テープ・ルアンによる『クン・プロム伝説記』や『ターオ・フン物語』など文化的に大きな発展を遂げた。

ウィスン・ナラートの後はポーティサラ・ラーサーが9歳で即位し、チェンマイ王国のヨート・カムティプ王女を妻に迎えた。当時チェンマイ国王であったケット・クラウには男児が産まれず、ポーティサラ王の子が男児であった場合、チェンマイ王国の王位継承権を主張できる立場にあるとした。

その後1535年、チェンマイ王国において貴族セーンドゥによる謀反が勃発し、ケット・クラウ王が暗殺される事件が発生した。セーンドゥは自身の推すシャンの領主を国王に推挙しようとしたが、セーンドゥと対立した貴族ムンサラムーンがラーンサーン王国の王子を推挙したためチェンマイ王国を二分する争いとなった。この争いはヨート・カムティプ王女の働きによりムンサラムーン派が優勢となり、1548年、ポーティサラ・ラーサーの息子セタティラートがチェンマイ王国の王位を継ぐ事で決着となった。

1550年、ポーティサラ・ラーサー王が象競技中の不慮の事故で死亡したため、ラーンサーン王国はチェンマイ王国に対し、セタティラートの帰国を要請した。要請を受け、セタティラート王はチェンマイ王国の王位を兼ねたままで執政をチラパー王妃に委任し、翌1551年にラーンサーン王国国王へ即位した。しかし、チェンマイ王国ではセタティラートに帰国の意思がないとして新しい国王を擁立する動きがはじまり、ナーンの領主であったメクティが即位した。セタティラートはこの行為に対し、背信行為としてチェンマイ王国へ軍隊を侵攻させ、制圧を試みたが、メクティの勢力を排除するには至らなかった。こうした経緯でそれまで蜜月の関係を築いてきたラーンサーン王国とチェンマイ王国は悪化の一途を辿った。

アユタヤ王国は絶頂期を迎えるこの頃の周辺動静として大きなものとして、1531年にビルマ族が周辺諸族を制覇し、タウング王朝を興したことと、1540年にクメール帝国の首都アンコール・トムがアユタヤ王国の手におち陥落したことがあげられる。タウング王朝はメクティ王政権下で混乱期にあったチェンマイ王国へ侵攻を始め、1588年には王都チェンマイを占領、チェンマイ王国は以降タウング王朝の傘下となった。

セタティラート王座像(ヴィエンチャン)タウング王朝の躍進を目にしたセタティラートはタウング王朝がラーンサーン王国へ侵攻を始めるのも時間の問題とし、1560年に王都をヴィエンチャンへ移した。ヴィエンチャンはタウング王朝の侵攻ルートからは外れている一方で、アユタヤ王国の領域に隣接しているというデメリットを抱えており、セタティラートはアユタヤ王国のマハーチャクラバット王に対し同盟を申し入れ、1562年、セタティラートがアユタヤ王国のテープ・カサティ王女を娶ることにより両王国に同盟関係が結ばれた。1563年、チェンマイ王国においてタウング王朝支配下からの脱却を求めて貴族セーンノーイらが挙兵したが失敗し、ラーンサーン王国へ保護を求めてきた。タウング王朝は彼らの受け渡しを求めたが、ラーンサーン王国はこれを拒否し、二国間の溝は決定的なものとなった。

セタティラート王により建立されたタート・ルアン仏塔1570年、アユタヤ王国を滅ぼしたタウング王朝は、1571年よりラーンサーン王国へ侵攻を開始し、王都ヴィエンチャンを攻めたが、食糧補給路の確保に苦慮し、撤退していった。セタティラートはこの侵攻をきっかけとして対岸のノーンカーイに避難したが、翌年病死した。その後王位をもつノー・ムアンが幼少であったため、セーン・スリンタルサイがノー・ムアンの王位を継承する形で即位したが、セーン・スリンタルサイは平民出であったことから地方領主や住民に対しての威厳を保つことができず、国内は荒れることとなる。そのため、1574年のタウング王朝の再侵攻を食い止めることができず、王都への入城を許してしまい、ヴィエンチャンは陥落し、タウング王朝の支配下の下、セタティラートの弟であるウォラ・ワンソーが新しい国王に任命されたが、1579年に起こった住民の反乱蜂起から逃れるため、ウォラ・ワンソーは筏でビルマへの逃亡を図った際に筏が座礁してしまい、溺死している。タウング王朝はその後も何人かのラーオ族にラーンサーン王国の統治を任せようとしたが、いずれも短期に終わり、直轄統治へと切り替えていった。タウング王朝の統治は住民への重い課税が影響し、ラーオ族がさらに南下せざるをえないきっかけとなり、この時期にラーオ族の居住範囲がチャンパーサックへと拡大している。

1591年、タウング王朝に監禁されていたノー・ムアンが釈放され、ラーンサーン王国の新しい国王に任命されると、王国の治安は回復し、安定を取り戻したが、ノー・ムアンは在位7年、1598年に27歳という若さで死去してしまった。ノー・ムアンに実子がいなかったことから王位継承争いが勃発し、宰相のウォーラ・ウォンサー(タンミカラート)が王位を継承した。ウォーラ・ウォンサーは王位継承と同時にタウング王朝からの独立を宣言し、その後24年間に渡って執政を行った[9]。

1622年、ウォーラ・ウォンサーが実子ユーパラートに暗殺されたのを期に以後凄絶な王位継承戦争が勃発し、国王が即位しては暗殺されるという事態が1633年のスリニャ・ウォンサーの即位まで続いた。スリニャ・ウォンサーの執政は57年という長きに渡り、ラーンサーン王国も繁栄期と呼べる目覚しい発展を遂げている。

スリニャ・ウォンサーの時代にラーンサーン王国は文化的開花を迎えるスリニャ・ウォンサーの改革は税制、行政、兵制に留まらず、隣国との平和維持活動も積極的に行い、越やアユタヤ王国との間で燻っていた国境の策定に尽力した。王都ヴィエンチャンはメコン川沿いの貿易港として当時有数の大都市へと発展を遂げた。また、1641年にはラーンサーン王国の歴史上において初となる西洋人の居住が確認されている[10]。文化面においてはチェンマイ王国の初代国王マンラーイの生涯を描いた『サン・シンサイ物語』や、史実創作史『シオサワート物語』、民話『シェン・ミアン物語』などの傑作が誕生した。

しかし、1690年のスリニャ・ウォンサーの死後は再び王位継承争いが始まり、1697年にサイ・オン・フェ(セタティラート2世)の即位により一応のおさまりはみせたものの、追放されたスリニャ・ウォンサーの血族などに禍根を残す形となり、後の三王国時代へと繋がっていくきっかけを作ってしまうこととなった。

1706年、スリニャ・ウォンサーの孫にあたるキン・キッサラートとインタソームの兄弟がルアン・プラバーンへ侵攻し、独立を宣言。ルアン・プラバーン王国を建国した。このとき、サイ・オン・フェ側にキン・キッサラートとインタソームを排除するだけの軍力はなく、独立を承認するか外部へ援軍を要請するかの選択に迫られた。サイ・オン・フェはアユタヤ王国に援軍を要請し、アユタヤ王国のスーア王もこれに応え、派兵した。しかし翌1707年、アユタヤ軍勢は到着したヴィエンチャンから動こうとはせず、結果的にラーンサーン王国はヴィエンチャン王国と、ルアン・プラバーン王国の二国に分断するかたちで和議を取らざるを得ない状況に追い込まれた。その後1713年にアユタヤ王国の計略によりさらにチャンパーサックの地域もチャンパーサック王国として分離・独立させられてしまい、ラーンサーン統一王国の歴史は幕を閉じることとなった。

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2009年02月08日 15:18に投稿されたエントリーのページです。

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